坂本勝:「地図とあらすじでわかる! 古事記と日本書紀」2009

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序章 古事記・日本書紀概要
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第1章 古事記
古事記は、別の書籍でまとめたので、項目だけ記載し、内容は省略する
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日本誕生
八百万の神
イザナキの黄泉の国訪問
天岩戸
ヤマタノヲロチ伝説
稲羽の素兎
スサノヲの試練
オホクノヌシの国造り
ホクノヌシの国譲り
タケミナカタの抵抗
天孫降臨
ウミサチビコとヤマサチビコ
神武東征
欠史八代
ミマキイリヒコイニヱ
ヤマトタケルの西征
ヤマトタケルの東征
オキナガタラシヒメの新羅遠征
ホムダワケの晩年
オホサザキとイハノヒメ
オホサザキの御子たち
オホハツセの台頭
オホハツセの治世
兄オケと弟ヲケ

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第2章 日本書紀
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神代紀(上) 中国思想の影響を受け作り直された神話

(1)古代思想の陰陽論を採用、「古事記」と異なる使者の国の概念
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当時のアジア圏の共通語である漢文が用いられている
「一書に曰く」のように諸説を併記している
天地開闢〜神武天皇誕生まで
天地の時、世界は渾沌とし「陰陽の区別もつかない」←中国思想の陰陽論
まず、神々の登場 くにのとこたち、くにのさつち、とよくむね 三柱の男神
次に、いざなき、いざなみが誕生 → 古事記とは事なり、二柱で島や神々を生んでいく
高天原と黄泉の国の概念がない
根の国が登場
古事記のイザナキが火の神の出産で命を落とした話、イザナキが黄泉の国に妻を取り戻しに行く話
→「一書に曰く」で記載

(2)記紀で一致する点の多い天岩屋と大蛇退治
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アマテラスが天岩屋に籠もる説話、スサノヲがヤマタノオロチ退治の伝説はほぼ一致
スサノヲの降臨の場所は、一説として安芸国とも伝えている

神代紀(下) 政治的意図を含んだ天孫降臨伝説

(1)古事記と異なる国譲り神話
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オオクノヌシが治めることになった葦原中国であったが、主たる神がまだ不在であった
降臨はタケミカヅキとフツヌシ
古事記のタケミナカタとタケミカヅチの力比べの記載は日本書紀にはない
天孫降臨 ニギニは神々や三種の神器とともに、日向の高千穂のくるふしのみねに降臨
ニニギは、コノハナサクヤヒメと出会い結ばれる 一晩で懐妊
  誓約により産屋に火をつけ 御子は無事誕生 兄:ホスセリ(海幸) 弟:ヒコホホデミ(山幸)
山幸が兄の釣り針をなくし、海の宮殿に行き、最後には海の神の力を借りて兄を懲らしめる ・・・この後の人世への以降過程は古事記と同じ

(2)神々の物語の中に紛れた編纂当時の人々の思惑
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日本書紀の神代の記述→諸外国の神話を複合的に取り入れている
・天孫降臨・・・北方系の伝承と類似
・火中での出産・・・東南アジア系の伝承と類似

天孫降臨の舞台が、なぜ大和ではないのか?
大和朝廷の勢力の誇示?

磐余彦尊(いわれひこ)の東征 壬申の乱に類似する倭征服経路

(1)初代天皇のモデルとなった天皇
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初代天皇=カムヤマトイワレビコ ヒホホデナミ アマテラスの子孫 海神 山神 あらゆる神々の血を受け継いでいる
45歳のとき東征に出発
長兄のイツセは戦死 イナヒは海に入りサビモチ神となる ミケイリも常世国(とこよのくに)に行く
末っ子のイワレビコが大和を征服し、神武天皇として即位する・・・諸説あり 大海人皇子(おおあまのおおじ:後の天武天皇)?
東征初年
十月五日:東征に出発、
十二月九日:筑紫国の岡水門、
十二月二十七日:安芸国の埃宮(えのみや)
 多家神社(たけじんじゃ):  →多家神社
 古事記:「多祁理宮(たけりのみや)に7年坐す」
 滞在中は、この地の人々に稲作を伝えたのでは、ともいわれている
 神武天皇が水を汲んだという「水分峡(みくまりきょう)」、腰掛けて休んだという「神武天皇御腰掛岩」、「神武天皇聖蹟顕彰碑(埃宮・多祁理宮)」など、神武天皇の足跡が府中町各地に残されている

東征ニ年 三月六日:吉備国の高嶋宮(たかしまのみや)に滞在、三年で船舶を備え、兵器や食料を整える
東征五年 二月十一日:難波崎に着く、三月十日:河内草香村白肩津(しらかたのつ)に着く ・・・ 十二月四日:ナガスネビコを討つ
東征七年 九月二十四日:ヒメタタライスズヒメを王妃とする
神武元年 一月一日:橿原宮に即位

(2)物部氏の祖は一足早く大和を支配した天孫族だった
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東征軍 河内湾の入り口で、長髄彦(ながすねひこ)の抵抗に遭って上陸をさまたげられる
紀伊半島沿いに南下し南から大和を目指す
長髄彦は、饒速日(にぎはやひ)という神に忠誠を誓っていた 
饒速日は、河内国に降臨した神であり、長髄彦の娘の三炊屋媛(みかしきやひめ)を娶っていた
ところが、饒速日(にぎはやひ)は、磐余彦尊(いわれひこ)に仕えてしまった
磐余彦尊(いわれひこ)は、長髄彦を殺して、支配地を磐余彦尊に差し出し、忠誠を誓った・・・この神が物部氏の祖  → 物部氏は、宮廷祭祀で権力を握り、有力な氏族になる

崇神天皇と四道将軍(しどうしょうぐん) 四道将軍を派遣し全国統一を推進した御肇国天皇

(1)阿倍氏にゆかりある武将たちが全国を平らげた物語
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崇神天皇は大和が鎮まったので、遠方に将軍を送り全国統一を推進した
四道将軍 
大彦(おおびこ)→ 北陸、武渟川別(たけぬなかわわけ)→ 東海、吉備津彦(きびつひこ)→ 西海、丹波道主(たんばみちぬし)→ 丹波
・・・阿倍氏の祖が二人含まれている(大彦、武渟川別)が、蘇我氏、物部氏、大伴氏が含まれていない→ 阿倍氏によりまとめられた

御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと): 最初に国土を統治した天皇の意味(第1代の神武天皇(始馭天下之天皇)、または第10代の崇神天皇(御肇国天皇)のこと)

(2)馬具の出土が示す騎馬民族渡来説
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崇神天皇自身が騎馬民族ではないかとの説もあったが否定されている

倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ) 日本書紀から探る伝説の女王の正体

(1)今もなお、多くの謎に包まれた古代王国と女帝
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崇神天皇の時代に疫病が蔓延した
神憑(かみがか)りとなり占った人物=倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)
同様な伝説として、邪馬台国の卑弥呼があるが、日本書紀にはその記述がない

中国の「漢書(かんじょ) 地理志」によると、日本は小国が分立していたと語る
三国志の魏志倭人伝に邪馬台国の記述がある・・・卑弥呼は鬼道(きどう)を用いて国を治め栄えたと語る

卑弥呼は巫女的な存在として神を祀る・・・この特徴と年代に当てはまるのが倭迹迹日百襲姫?

(2)夫である大物主を辱(はずかし)めたため命を落とした倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)
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日本書紀 
箸墓古墳に関する伝承
倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)は、夜ごと訪ねてくる男性に「ぜひ顔をみたい」と頼む
男は最初拒否するが、断りきれず、「絶対に驚いてはいけない」という条件つきで、朝小物入れをのぞくよう話した
朝になって百襲姫が小物入れをのぞくと、小さな黒蛇の姿があった
驚いた百襲姫が尻もちをついたところ、置いてあった箸が陰部に刺さり、この世を去ってしまったという

景行天皇と日本武伝説 古事記とは異なる物語性の薄い征討伝説

(1)日本武(やまとたける)の華々しい登場の舞台、熊襲討伐
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古事記 日本武の伝説は、悲劇性の強い物語

日本書記 全く異なる物語として語られる
熊襲討伐は、景行天皇が自ら東征に出発している
日本武は、二度目の熊襲討伐に遣わされるが、熊襲魁帥(くまそたける)は既に、景行天皇によって滅ぼされているので、討伐したのは川上魁帥(かわかみのたける)とされている

(2)親子の確執が記されない征討記
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日本書紀には、古事記のように父との確執が全く語られていない
父が子(日本武)を厄介払いしたというより、天皇が息子を自分の代理として遣わせている
日本武が無事に平定した時には、その手柄を讃えている

神神功皇后(じんぐうこうごう)の朝鮮遠征 四世紀の史実を反映した神功皇后伝説

(1)朝鮮半島での覇権争いに加担した大和朝廷
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景行天皇の後を継いだ政務天皇が世を去ると、日本武(やまとたける)の子の足仲彦天皇(たらしなかつひこてんのう)が即位
足仲彦天皇=仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)

即位8年、熊襲討伐のため皇后とともに筑紫に赴き、神懸りした皇后から託宣を受けた
それは「熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて海を渡れば金銀財宝のある新羅を戦わずして得るだろう」という内容だった
しかし高い丘に登って大海を望んでも国など見えないため、この神は偽物ではないかと疑った
祖先はあらゆる神を祀っていたはずであり、未だ祀ってない神はいないはずでもあった

神は再度、皇后に神がかり「おまえは国を手に入れられず、妊娠した皇后が生む皇子が得るだろう」と託宣した
これを無視して構わず熊襲を攻めたものの空しく敗走した
即位9年2月、急死して神の怒りに触れたと見なされた

このとき同行していたのが、神功皇后である
日本書紀では、神功皇后の記述を天皇以外で唯一、「神功皇后紀」として記載している」
神功皇后は、九州の地を平定した後、新羅征服の軍を起こす

四世紀の朝鮮 百済、新羅、伽耶(かや)、高句麗が覇権を巡っていた ここに倭が介入
倭は百済と伽耶との連合軍に加わり、高句麗に打撃を与える → 百済王から倭の国王に「七支刀」(しちしとう)」と「七鈴鏡(しちれいきょう)」が送られている

(2)四世紀の東アジア情勢が生んだ神功皇后伝説
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神功皇后紀の後半の記述
新羅を征し、百済も配下に収めた皇后は、帰路で皇子を出産した直後も、国内の敵と戦いながら大和に帰還したというものだ
その後、再度新羅遠征に赴く記述も残っている
神功皇后は天皇に即位していない・・・朝廷内の内紛と大和朝廷の考えを反映した物語が伝説となった?

河内王権の始まり 王朝の変化がもたらした河内の王権

(1)河内に勢力を張る新たな王朝の誕生
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神功皇后が筑紫で生んだ皇子が応神天皇となる
応神天皇(第十五代)から本拠地が大和盆地から大阪の河内に移る
河内王朝は、新たな王朝とする説もある
仁徳天皇(第十六代)と応神天皇は同一人物との説もある

(2)大型前方後円墳の造営が示すものとは?
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応神天皇が没すると大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと、日本書紀)が即位
仁徳天皇(にんとくてんのう)=大鷦鷯天皇
民のかまど伝説
即位4年、人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除した その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった
という記紀の逸話に見られるように仁徳天皇の治世は仁政として知られる

埋葬儀礼などの文化が共有されるようになった
仁徳天皇稜・・・エジプトのクフ王のピラミッドや秦の始皇帝稜をしのぐ規模  →仁徳天皇稜

強力な王権の誕生

倭の五王 朝鮮南部における覇権確立を夢見た五人の王

(1)宋書に伝わる五人の大王
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仁徳天皇の後継・・中国の史書に登場している五人の倭王
第17代履中天皇(りちゅうてんのう)
第18代反正天皇(はんぜいてんのう)
第19代允恭天皇(いんぎょうてんのう)
第20代安康天皇(あんこうてんのう)
第21代雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)

(2)宋の皇帝からの官爵授与で国内外にその権利を主張
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大和朝廷は、朝鮮半島の伽耶(かや)まで領土を広げ、百済と連携していた
中国王朝は、高句麗、百済、倭を認めている

大和と肩を並べた諸勢力 大和朝廷に屈服していった各地の勢力のその後

(1)独自の文化を誇った四大勢力
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日向勢力・・・天皇の后を多く排出
吉備勢力・・・独自の風習文化
毛野勢力・・・大和政権に反抗
出雲勢力・・・独特の文化

(2)三度の反乱に失敗し朝廷に従った吉備
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雄略天皇紀
吉備勢力・・・大和朝廷に対して三度の反乱を起こした

武烈天皇(ぶれつてんのう) 王朝交代のために極悪人にされた天皇

(1)若くして即位した気性の荒い天皇
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応神--仁徳--履中--反正--允恭--安康--雄略--清寧-子なし
  |    |--○-顕宗--仁賢--武烈-子なし
  |--○--○--○--○--継体

第22代清寧天皇には子がいなかったため、第17代履中天皇の子孫である顕宗天皇(第23代)が即位した
その後、仁賢天皇を経て、第25代武烈天皇が即位する
武烈天皇も子がいなかった
ここで、仁徳天皇の子孫の血筋が途絶えることになるが、もう一代前の応神天皇の血を引く継体天皇が、第26代天皇に即位することになる

古事記 継体天皇から第33代推古天皇までの記載は経歴を記すのみ
日本書紀 武烈天皇を王朝交代のために極悪人として記載している

(2)暴虐の限りをつくした武烈天皇の真実
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日本書紀にのみに記載されているが、信ぴょう性に疑問が残る
後世になってから書き加えられたと推測される
古代中国には「徳の無い君主は子孫が途絶える」という考えがあり、夏の桀、殷の紂などがその好例とされていた
これに習って、武烈天皇を徳の無い君主と仕立てあげ、大和朝廷の皇統断絶の理由としたと推定される

皇統は継体天皇の即位により保たれたことになる

継体天皇(けいたいてんのう) 大和に入るまでに二十年要した北国出身の天皇

(1)大伴金村が東奔西走(とうほん-せいそう)した新たな天皇探し
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武烈天皇が崩御された後に、大伴金村が東奔西走(とうほん-せいそう)し、新しいの皇統のある天皇を探し出した
そうして、越前の三国の男大迹王(をほどのおおきみ)を見つけ出す
臣・連たちが節の旗を持って御輿を備えて迎えに行くと、男大迹王には大王の品格があり、群臣はかしこまり、忠誠をつくそうとした
しかし、男大迹王は群臣のことを疑っており、大王に即位することを承知しなかった
群臣の中に、男大迹王の知人である河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)がいた
荒籠は密かに使者をおくり、大臣・大連らが男大迹王を迎え入れる本意を詳細に説明させた
使者は3日かけて説得し、そのかいあって男大迹王は即位を決意し、大倭へ向けて出発した

(2)五十八歳で即位、七八際で大和へ
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男大迹王(をほどのおおきみ)は、507年、58歳にして河内国樟葉宮(くすはのみや、現大阪府枚方市)において継体天皇として即位する
武烈天皇の姉にあたる手白香皇女を皇后とした

511年に筒城宮(つつきのみや、現京都府京田辺市)、
518年に弟国宮(おとくにのみや、現京都府長岡京市)を経て、
526年にようやく大和に入り、磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現奈良県桜井市)に遷った

このように大和に入るのに時間を要したのは、新たな天皇を受け入れない勢力が朝廷内にあったものと推測される

筑紫君磐井(つくしのきみいわい)の反乱 朝廷への不満を爆発させた九州勢力の聖戦

(1)磐井の乱(いわいのらん)のきっかけとなった対朝鮮外交の失策
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磐井の乱: 527年(継体天皇21年)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いる大和朝廷軍の進軍を筑紫君磐井がはばみ、翌528年(継体天皇22年)11月、物部麁鹿火によって鎮圧された反乱、または王権間の戦争 →筑紫君磐井(つくしのきみいわい)の反乱

日本書紀の記述:
527年、大和朝廷の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した
この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の筑紫国造磐井へ贈賄し、大和朝廷軍の妨害を要請した

任那の百済への割譲という外交政策の失敗が外的要因であったと推測されている

(2)九州北部一帯を巻き込んだ反乱
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磐井が新羅と組んで朝廷に反旗を翻した時、他の九州の勢力はなぜ手を貸したのか? → 九州で朝廷に対する不満が渦巻いていたため
九州は独自の優れた文化を持つ先進地域、大和朝廷とは離れた土地柄 → 古墳にも特徴がみられる  →岩戸山古墳
石の文化: 石人、石馬、石盾
新羅出兵による負担
新羅系の渡来人との関係
大和朝廷は、物部麁鹿火(もののべのあらかひ)を派遣し、磐井を打ち取り、乱を平定した → 朝廷の地方豪族への支配の強化となった

安閑・宣化天皇と欽明天皇 二朝分裂疑惑が持たれる日本書紀の記述

(1)継体天皇の三人の皇子たち
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26 継体天皇
    |--27 安閑天皇 大伴金村、物部麁鹿火を大連として治世を実施、屯倉(みやけ)の増加
    |--28 宣化天皇 同上 屯倉(みやけ):全国に設置した直轄地を表す語
    |--29 欽明天皇 仏教伝来、朝鮮政策の記事が多い 任那(みまな)は新羅により征服されてしまう 蘇我氏の勢力拡大 大伴金村の引退

(2)矛盾だらけの三人の天皇の即位持期
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「日本書記」と「百済本紀」において、三人の天皇の即位日に矛盾がある
「上宮聖徳法王帝説(聖徳太子の伝説)」では、継体天皇の後は欽明天皇と記載されている

崇仏(すうぶつ)論争 親子二代にわたる蘇我と物部の権力闘争

崇仏論争: 崇仏論争(崇仏廃仏論争)とは、もともと土着の宗教観をもっていた日本に552年あるいは538年に、仏教が伝わり、信仰の対象となってきた
それにともない、仏教の受容を主張する蘇我氏と、それに反対する物部氏・中臣氏のあいだにおこった宗教論争である
仏教をもたらした渡来人とつながりのあった蘇我稲目は仏教の受容を積極的に主張したが、物部尾輿・中臣鎌子は日本古来の神がみを祭る神道の立場からこれに反対した

(1)崇仏を巡って反目した朝廷内二大豪族
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29欽明天皇の治世に仏教が伝来
後継の30敏達天皇の時代に、仏教の受容を巡って臣下同士の争いが勃発
物部尾興(もののべのおこし): 排仏派 → 子の物部守屋(もりや): 仏塔・仏殿の焼払い
蘇我稲目(そがのいなめ): 仏教加護者 → 子の蘇我馬子(うまこ): 仏塔の建立

後継の31用明天皇は、仏教に理解を示したため、蘇我氏が有利となる

(2)仏教加護派の蘇我氏に上がった軍配
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排仏派: 物部守屋、中臣勝海(なかとみのかつみ)
仏教加護者: 蘇我馬子 ・・・ 欽明天皇の詔を得て、排仏派打倒の準備を始める 中臣勝海は寝返ったが、蘇我氏に討ち取られた
蘇我馬子は、泊瀬部皇子(はつせべのみこ)を、32崇峻天皇(すしゅんてんのう)として即位させた

物部氏が没落し、蘇我氏の権力が増大 → 崇峻天皇は蘇我馬子を疎(うと)ましく思うようになった
→ 崇峻天皇は蘇我馬子に暗殺される(暗殺された唯一の天皇)

推古天皇 中央集権体制を進めた日本史上初の女帝

(1)仏教興隆や技術促進など多くの業績を残した女帝
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暗殺された崇峻天皇の後継は、女帝の推古天皇(すいこてんのう)
→ 幼い武田皇子(たけだのみこ)が成長するまでのつなぎとしての即位であった
蘇我氏の血を引く推古天皇の治世は、蘇我氏の傀儡政権(かいらいせいけん)との見方がある
傀儡政権: ある領域を統治し、名目上は独立しているが、実態は事実上の支配者ある外部の政権・国家によって管理・統制・指揮されている政権

推古天皇 厩戸皇子(うまやどのおうじ、聖徳太子)も重用した 
三宝(さんぽう)の興隆を命ずる詔を発する → 寺の建立が広まる

(2)推古天皇最大の実績、中央集権国家への諸制度制定
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中央集権国家の推進
「国記」、「天皇記」の編纂
壬生部(みぶべ)、私部(きさべ)の創設
 壬生部: 大王(天皇)の皇子・皇女のために置かれた部。乳部とも記される
 私部: 后(きさき)のために農耕をしたり、あるいは身の回りの世話をする人々の総称
宮司制の整備、太夫による合議制の導入

聖徳太子の内政 外征失敗の衝撃を受け促進された国政の充実

(1)聖徳太子らが着手した内政整備
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推古天皇から厩戸皇子(うまやどのおうじ、聖徳太子)は皇太子に指名される
官位十二階の制定(603、推古11)・・・徳・仁・礼・信・智にそれぞれ大小を設けることで官位とした(官位ごとの服装も決めた)

(2)後世の創作とささやかれる憲法十七条
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憲法十七条に制定(604、推古12)・・・ →憲法十七条

聖徳太子と遣隋使 国内諸制度の整備を終え、再開された中国王朝との外交

(1)朝鮮半島での戦況が悪化、頓挫した新羅征伐
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朝鮮半島の状況
同盟国の百済が衰退、新羅が勢力拡大
小国の伽耶(かや)は、大和と百済の配下であったが、527年に新羅が伽耶を征服した
聖徳太子は新羅に大軍を送ったが、失敗に終わった

(2)日本書紀が隠したかった第一回遣隋使
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遣隋使の1回目は、日本書紀には記載がなく、「随書」に記載がある
600年に、倭王は高祖文帝に使者を送った
中国皇帝の高祖文帝が担当の役人に使者にその風俗を尋ねさせた
使者は、「倭王は天を兄とし、日(太陽)を弟としている。天がまだ明けない時に出てきて政務を行い、あぐらして坐っている。日が出ると政務を執ることをやめ、あとは我が弟、太陽に委ねようという。」と答えた

高祖文帝は「それは、甚だ道理がないことだ」と言い、倭国に命じて、これを改めるように諭した
その後、大和朝廷は、国内の整備を進めた

遣隋使の2回目は、日本書紀には記載がある
607年に小野妹子を遣隋使として送った
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云々」の書きだし
これを見た隋帝は立腹し、無礼な書は、今後自分に見せるなと命じたとい

しかし、当時の随は、高句麗との戦いを控えており、倭を敵に回したくなかったため、裴世清(はいせいせい)を使者に任命し、小野妹子とともに日本に渡った

日本書紀 裴世清が持ってきたとされる書
「皇帝、倭皇に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、みずからの徳をひろめて、すべてのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したというこころに、遠い近いの区別はない。倭皇は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う。」

裴世清は、帰国後、大和朝廷の礼式が優れていることを報告した
日本書紀 返書の書き出し 「東の天皇が敬(つつし)みて西の皇帝に白す」・・・対等外交の始まり!
天皇号の始まりとする説がある
聖徳太子の活躍により、国内は充実した
622年に聖徳太子が没する 謎に包まれているため暗殺説もある

乙巳の変(いっしのへん) 稀代(きたい)の策士たちに潰された蘇我氏の専横(せんおう)

(1)暗雲が立ち込め始めた蘇我氏の絶頂
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626年蘇我馬子が世を去り、628年推古天皇が後嗣を指名することなく崩御した

聖徳太子の死により大豪族である蘇我氏を抑える者がいなくなり、蘇我氏の専横は甚だしいものになり、その権勢は皇室を凌ぐほどになった
有力な皇位継承権者には田村皇子と山背大兄王(聖徳太子の子)がいた
蝦夷は山背大兄王を推す叔父の境部摩理勢を滅ぼして、田村皇子を即位させた
629年田村皇子が舒明天皇(じょめいてんのう)として即位
蘇我氏の実権が、蘇我蝦夷(えみし)の息子の蘇我入鹿(いるか)に移るころから、日本書紀には僭越な振る舞いをする蘇我氏の記載が増えてくる

(2)二人の策士が企てた乙巳の変(いっしのへん)
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蘇我氏の勢いはますます盛んになり、豪族達は朝廷に出仕せず、専ら蘇我家に出仕する有り様となった
舒明天皇13年10月9日(641年11月17日)、舒明天皇は崩御し、皇后であった宝皇女が即位した(35皇極天皇)

中国では随が滅び、唐となり、朝鮮半島の争いも激化していた

政治機能の回復と新たな世界情勢に対応するには、変革が必要であった
反蘇我氏のクーデターが起こる
乙巳の変(いっしのへん): 飛鳥時代645年(乙巳の年)に中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を宮中にて暗殺して蘇我氏を滅ぼした政変
この報せを聞き、最期を悟った蘇我蝦夷は屋敷に火を放って自害し、蘇我氏は滅亡した

大化の改新 粛清の嵐が吹く中進められた改革

その後、中大兄皇子は体制を刷新し大化の改新と呼ばれる改革を断行した。蘇我入鹿が殺された事件を「大化の改新」と言うことがあるが、厳密には乙巳の変に始まる一連の政治制度改革が大化の改新。乙巳の変は大化の改新の第一段階である。

(1)新都で発布された改新の詔
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36孝徳天皇(こうとくてんのう)は、皇極天皇の攘夷によって即位した
大化の年号が定められた
この治世の実権・・・中大兄皇子と中臣鎌足
中大兄皇子は、政敵を次々と消していった

改新の詔
 1.従前の天皇等が立てた子代の民と各地の屯倉、そして臣・連・伴造・国造・村首の所有する部曲の民と各地の田荘を廃止する。
 2.初めて京師を定め、畿内・国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬の制度を設置し、駅鈴・契を作成し、国郡の境界を設定することとする。
 3.初めて戸籍・計帳・班田収授法を策定することとする。
 4.旧来の税制・労役を廃止して、新たな租税制度(田の調)を策定することとする。

第1条は、天皇・王族や豪族たちによる土地・人民の所有を廃止するものである。
第2条は、政治の中枢となる首都の設置、畿内・国・郡といった地方行政組織の整備とその境界画定、中央と地方を結ぶ駅伝制の確立などについて定めるものである。
第3条は、戸籍・計帳という人民支配方式と、班田収授法という土地制度について定めている。
第4条は、新しい税制の方向性を示す条文である。

(2)改革の中に吹き荒れた粛清の嵐
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36孝徳天皇朝の初めには、不穏な事が続いた
孝徳天皇と中大兄皇子(29欽明天皇の子)は仲違いし、朝廷は分裂する
孝徳天皇の崩御後、前天皇の皇極天皇が、37斉明天皇(さいめいてんのう)として再び即位する
孝徳天皇の皇子の有間皇子(ありまのみこ)は罠にはまって殺害される

白村江(はくそんこう)の戦い 朝鮮進出んぽ野望が打ち砕かれた大海戦

(1)相次ぐ不吉な出来事と天皇の死
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37斉明天皇の治世、大和朝廷のもとに百済から救援要請が来た → 女帝斉明天皇は、自ら西征に向かう
不吉な出来事が起きるなか、天皇も崩御した
後を継いだのが、中大兄皇子(29欽明天皇の子)であるが即位はしなかった
中大兄皇子は、百済の王子豊璋(ほうしょう)と大和軍船170艘を派遣した

(2)内紛で自滅した白村江の戦い
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百済の王子豊璋(ほうしょう)と百済の鬼室福信(きしつ ふくしん)との仲違いが発生 → 福信が殺害される
白村江の戦い: 朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた百済復興を目指す日本・百済遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との間の戦争
百済・倭の連合軍は、敗退する

壬申の乱(じんしんのらん)前史 皇位継承を巡る兄と弟の駆け引き

38天武天皇元年6月24日 - 7月23日、(672年7月24日 - 8月21日)に起こった古代日本最大の内乱である。
天智天皇の太子・大友皇子(1870年(明治3年)に弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が兵を挙げて勃発した。反乱者である大海人皇子が勝利するという、日本では例を見ない内乱であった。

(1)乙巳の変(いっしのへん)からニ三年後の即位
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中大兄皇子は、白村江の敗戦後、帰国する
唐からの防衛体制を整え始める
667年、近江の大津宮に遷都、668年中大兄皇子は、38天智天皇(てんちてんのう)として即位
670年、庚午年籍(こうごのねんじゃく)を作成 ・・・国規模の最古の戸籍

(2)皇位継承問題で微妙な関係に立つ兄弟
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天智天皇の弟である大海人皇子(おおあまのみこ)との関係が複雑化し、皇位継承問題化し、壬申の乱(じんしんのらん)へ発展していく
舒明 |--38天智天皇--大友皇子(敗者)
  || ー|
斉明 |--弟・大海人皇子(勝者)→第40代天武天皇

壬申の乱(じんしんのらん) 叔父と甥が繰り広げた古代最大の内乱

(1)開戦当初から先手を取りつづけた人望の厚い大海人皇子(おおあまのおうじ)
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壬申の乱: 天智天皇の太子・大友皇子(1870年(明治3年)に弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が兵を挙げて勃発した。反乱者である大海人皇子が勝利する
天智天皇からの皇位継承の依頼を辞退した大海人皇子は、すぐに出家し吉野に籠もる
天智天皇が崩御 → 大友皇子(天智天皇の子)が後を継ぐ
叔父の大海人皇子が挙兵 美濃に兵力を集結

(2)連戦連勝を飾り即位した大海人皇子(おおあまのおうじ)
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大海人皇子は連戦連勝の末に、最期の戦いの地である「瀬田の唐橋(せたのからはし)」にて火蓋がきられた  →瀬田の唐橋

激戦の末、大海人軍が勝利する → 大友皇子は、山崎にて自ら命を絶ち、壬申の乱は終結する
大海人皇子は、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)に移り、686年40天武天皇として即位した

中央集権国家の完成 幾多の動乱を経て始まった天皇を中心とした新たな時代

(1)中央集権化に励み天下は太平、記紀の編纂も行われる
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飛鳥浄御原宮で即位した天武天皇は、戦乱の功績者を讃え、書生たちに写経を行わせている
以前は「大王(おおきみ)」と呼ばれていたものを「天皇」という名称に変えたのも天武朝のことだと考えられている
天皇家が神代から続く特別な家系であり、天皇と貴族の関係を明らかにするため、神代からの歴史をまとめさせたものが、「古事記」と「日本書紀」である

古事記 序文において編纂の経緯について説明している → 天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた上述の『帝皇日継』と『先代旧辞』を太安万侶が書き記し、編纂したものである 和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上された

日本書紀 序文がなく編纂の経緯について説明されていない 日本書紀の成立は養老4年(720年)とするのが一般的である

(2)亡き夫の遺志を継いで孫に平和な世を託した女帝
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40天武天皇が崩御され、鸕野(うの)皇后が執務を引き継いだ
690年41持統天皇(じとうてんのう)が即位 
持統天皇が草壁皇子(くさかべのみこ)が残した軽皇子(かるのみこ、文武天皇(もんむたんのう))に皇位を譲ったところで、日本書紀は全三十巻の膜を閉じる

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坂本勝:「地図とあらすじでわかる! 古事記と日本書紀」 2009
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