渡部昇一:「神話の時代から」2016

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第1章 神代から続く皇統ー日本人はどこから来たか
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日本史における神話の意義

古事記、日本書記(記紀と称される)
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神代(かみよ):日本書紀では、「巻第一 神代上」、「巻第二 神代下」に記述されている
「日本史講話 (萩野由之)」・・・神代の時代の記述あり日本史講話

藤原氏と天皇家の関係:
藤原道長(966-1027年)は栄華を極めたが、天皇をめざさなかった
→ 藤原氏の先祖は、天児屋命(あめのこやねのみこと)で、天孫降臨では瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に付き従った神=神話の時代から藤原家は天皇系に仕える家であっ

源頼朝も第56代清和天皇からわかれた子孫であるので、「自分は天皇家の皇子の子孫であるから本家を侵してはならない」として帝王として君臨しなかった

日本史における神話の意義は、脈々と日本人の中に引き継がれている!
 

アガメムノンと神武天皇

ギリシャ神話のゼウスの血をひくアガメムノン直系の王家が現代もギリシャに
続いているとすると、日本の天皇家と同じになる
・・・神話の時代から王家が続いている→ 世界に類を見ないこと!

考古学の限界

考古学の研究は貴重であるが、考古学が歴史に取って代わることはできない
記紀(古事記、日本書紀)などの文献は、多くの情報を我々にもたらしてくれ、考古学とはまったく質の違う重要性を持っている

明らかにされた古代伝承

西洋でも十九世紀に、歴史を科学的にとらえて、古代伝承を否定することが流行(はや)った
ギリシャ神話、旧約聖書、アーサー王伝説などは、一度は否定された

しかし、古代伝承に憑(つ)かれたドイツのアマチュア考古学者が、ミケーネやトロイの遺跡を発掘して世界を驚愕させた
→ ホメロスの叙事詩の方が、歴史としては正確であったということ
旧約聖書 → ノアの洪水、ノアの方舟の跡らしきものも取り沙汰されている
アーサー王伝説 → その存在を示す古銭が発見された
古代伝承は復権している

「騎馬民族説」の脆さ

戦後の考古学万能主義(古代を理解するには考古学しかない)の悲劇・・・江上波夫氏「騎馬民族征服王朝説」
騎馬民族が天皇家の起源とする説
→ 古事記や日本書紀に馬に乗った天皇が出てこないことにより、論破された

海洋民族の国

記紀は、「神様が島をつくった」との伝承から始まっている
意味するところ→ 記紀の時代に日本が島国である事実を知っていた

日本列島の周囲を船で航海していたとすると、「佐渡ヶ島」の記述も説明がつく
青森の三内丸山遺跡・・・九州から離れた地へ、日本人の祖先が、船で到達していたと考えられる

伊勢神宮の創祀は、日本書紀(垂仁天皇(すいにんてんのう)25年3月)によれば、
天照大神が倭姫命(やまとひめのみこと)に  是神風伊勢国則常世之浪重浪帰国也、傍国可怜国也。欲居是国。 という神託(しんたく)を下されたからである
(意味)「この神風の伊勢国は、常世の波がしきりに打ち寄せる国である。大和の傍(かたわ)らにある国で、美しいよい国である。この国におりたいと思う」
→ これも海からの視点である

日本語の起源

日本人の祖先がどこから来たのか、それを知るには日本語の起源を探るという方法がある
支配階級は海をわたって来たと考えられる
海外起源説は、いずれも朝鮮半島経由ではなく、海洋を渡ってきたと考えられている
・・・いずれも研究中である・・・

日本人のDNA

原勝郎:"An Introduction to The History of Japan (1920)"
後に支配層となった主流は民族はどこからきたのか → おそらく南方系だろう
 理由1:住居が夏向き
 理由2:米(こめ)への異常ともいえる執着心
 理由3:勾玉(まがたま)の持参 勾玉は日本と百済で発見 百済や朝鮮南部に住み着いた民族も南方系 北方では発見されていない
 理由4:宗教儀式で禊(みそぎ)が重要視される 禊は水をかぶることなので南方系の儀式と考えられる

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第2章 神話の時代
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神武天皇に至る系図 P.38

伊弉諾尊いざなぎのみこと、男神)と伊弉冉尊(いざなみのみこと、女神)から
天照大神(あまてらすおおかみ)、 月読尊(つくよみのみこと)、 素戔嗚尊(すさのうのみこと) の3人の神様が生まれる

天照大神と素戔嗚尊で誓約(うけい)が行われる ==> 誓約(うけい)

天照大神からはダギリヒメ、イチキシマヒメ、タキツヒメの三女神(素戔嗚尊が引き取る)、
素戔嗚尊からはアメノオシホミミ、アメノホヒ、アマツ ヒコネ、イクツヒコネ、クマノクスビの 五男神(天照大神が引き取る)が生まれ、素戔嗚尊に野心がないことが認められる

天照大神の天孫降臨 → 大和族
素戔嗚尊(すさのうのみこと) → 出雲族

天照大神が引き取った天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと)は高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の娘である
栲幡千千媛(たくはたちぢひめ)と結婚して、饒速日命(にぎはやひのみこと)と瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が生まれた。

この瓊瓊杵尊が高天原から天孫降臨して、大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘の木花開耶姫(このはなのさくやびめ)と結婚する。
瓊瓊杵尊と木花開耶姫の間には、天火明命(あめのほあかりのみこと)、火闌降命(ほすそりのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の3人の息子が生まれた。
天火明命は海幸彦、彦火火出見尊は山幸彦とも呼ばれる。
彦火火出見尊は、豊玉姫(とよたまひめ)と結婚し、鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)を生む。
鸕鶿草葺不合尊は、玉依姫(たまよりひめ)と結婚し、神日本磐余彦天皇(かんやまといわれびこのすめらみこと)、すなわち「神武天皇」が誕生する。

要約すると、
天照大神(あまてらすおおかみ 女神)
→ 天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと 男神)
→ 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと 男神)
→ 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと 男神)
→ 神日本磐余彦天皇(かんやまといわれびこのすめらみこと 男神)、すなわち「神武天皇」
いずれも、男系を継続して神武天皇に至っている。

「純血」が生んだ「貴族」 p.42

天照大神と素戔嗚尊は、姉弟で結婚したわけだが、昔は血を大切にし、「血を守る」という意識が強く、皇族同士の近親結婚が多かった
この意識は、エジプト王朝にも見られる(クレオパトラが弟のプトレマイオス十三世の結婚)
現在の日本の法律では、三親等内の血族結婚は禁止されている(いとこから許される)・・・遺伝学的理由のため

推測 当時の皇室には、土着の人間より背が高く、体も大きく、輝くような才能を持った人物が数多くいたのではないだろうか
たとえば、景行天皇の皇子・日本武尊(やまとたけるのみこと)が、東国に赴くと、その姿を見ただけで平伏して降参してしまう
日本武尊は、複数人を一人に集約した存在なのかもしれないが、そのような人物が、地元の豪族を殺戮などではなく征服していったのだろう

もう一つの天孫降臨族 p.45

神武天皇は神話の系図の最後に現れる
神話を無視した戦後の歴史教育のために、初代・神武天皇のことが知られていない
 → 二千年も語り継がれ、戦前の小学生が知っていたことは、現在の小学生も教えておく必要があると思われる

神武天皇は東征して大和朝廷を建てる
北九州までは陸路、その後は海路で瀬戸内海を行くが、各地に寄り道している
宇佐では天種子命(あまたねのみこと)を菟狭津姫(うさつひめ)と結婚させ、これが中臣氏の先祖であるというようなことも「日本書記」に記述されている
安芸国、○吉備国にも滞留し、大和に至るまでに十年近くかかっているが、この間戦争の記載がなので、土着の人々は大きな抵抗をすることなく、天皇に服従したようである

河内国・草香邑(くさかのむら)の白肩津(しらかたのつ)に着き、生駒山を超えて大和に入ろうとする
これを豪族の長髄彦(ながすねひこ)の軍隊が迎え撃ち、孔舎衛坂 (くさのえのさか)で激戦と成る
神武天皇の兄・五瀬命(いつせのみこと)に矢が当たり、深手を負う

長髄彦は、もう一つの天孫降臨族の饒速日命(にぎはやのみこと)に仕えると記述されている
日本書紀 神武東征に先立ち、天照大神から十種の神宝を授かり天磐船(あまのいわふね)に乗って河内国(大阪府交野市)の河上哮ケ峯(いかるがみね)の地(現在の磐船神社周辺の一帯地と考えられている)に降臨し、その後大和国(奈良県)に移ったとされている

推論 南方から来た日本の支配階級である「天皇降臨民族」は一つでなく、幾つかの集団が日本に渡ってきて、河内に先に来ていた一族の者が、土着の酋長(しゅうちょう)の長髄彦の妹と結婚したのではないだろうか

苦戦を強いられた神武天皇は、「自分は日神(ひのかみ)の子孫であるのに、日に向かって進み敵を討つのは天道にさからっている。背中に太陽を負い、日神のご威光を借りて戦うのがよいだろう」と考え、船で紀州に向かう

五瀬命は、紀国(きのくに)の竈山(かまやま)で亡くなり、この地に葬られた → 竈山神社(主祭神:彦五瀬命) ==>竈山神社

熊野から大和に赴こうとするとき、八咫烏(やたがらす)という大きなカラスが現れて先導したという
これは、山城の賀茂氏の祖であり、賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)の祭神である鴨建角身命(かもたけつぬのみこと)の化身だとも言われているが、おそらく土着の人間が道案内してくれたということだろう

このとき大伴氏の先祖である日臣命(ひのおみのみこと)が大軍を率いて、八咫烏に付いて行き、ついに奈良県の宇陀(うだ)に着いた
神武天皇は、日臣命を褒めて「道臣(みちのおみ)」の名を授けた

そして、再度、長髄彦との決戦に臨む
このとき、金色の鳶(とび)が飛んできて、神武天皇の弓の先にとまった
その鳶は稲妻のように光り輝き、長髄彦の軍勢は目がくらんで戦えなかったと伝えられている

長髄彦は、神武天皇を「天神の子」と認めたあとも改心しなかった
天孫降臨族の饒速日命(にぎはやのみこと)は、長髄彦を倒して、神武天皇に帰順した
この饒速日命が、物部氏の先祖である

中臣氏の先祖や物部氏の先祖のような系譜が、あとあとまで日本の歴史に影響しているのだから、日本史から神話を切り捨ててはいけない

撃ちてし止まむ P.48

久米歌(くめうた):神武天皇が東征の際に詠んだ歌、軍歌

久米歌は、和歌が生まれる前の歌謡の一つ
神武東征の中、長脛彦を討ち取った勝ち戦のあとの酒宴で詠まれた「久米歌(来目歌)」三首
久米は古代の氏族で大伴氏の配下にあって軍事的役割を担っていた

みつみつし 久米の子等が 粟生(あはふ)には 臭韮(かみら)一茎(ひともと) そ根が茎 そ根芽繋ぎて 撃ちてしやまむ
(意味)勇ましい久米の者どもの 粟の畑には臭い韮が一本 その韮のように根も茎もひとまとめに 討ち取らずにおくものか

みつみつし 久米の子等が 垣下に 植ゑし椒(はじかみ) 口疼(くちびひ)く 我は忘れじ 撃ちてしやまむ
(意味)勇ましい久米の者どもの 陣営の垣の下に植えた山椒ではないが 口が疼(ひびら)くほどの恨みを我は忘れぬぞ 討ち取らずにおくものか

神風《かむかぜ》の 伊勢の海の 大石(おひし)には 這(は)ひもとほろふ 細螺(しただみ)の い這ひもとほり 撃ちてしやまむ
(意味)神風が吹く伊勢の海の 大きな岩にびっしりと這いまつわってる 細螺のように 敵を隙間なく囲んで 討ち取らずにおくものか

「撃ちてしやまむ」の精神で神武天皇は、進軍を重ね、ついに大和を平定する
神武天皇の名に、「武」がついているように、日本の国は「武」によって始まる

神武天皇は、畝傍(うねび)の橿原(かしはら)の地に、立派な宮殿を建てた・・・大和朝廷はここから始まる(日本書紀の基づく国の起源)

ユダヤ人を救った神武天皇の詔 p.51

橿原神宮は、神武天皇が畝傍山の東南・橿原の地に宮を建てられ即位の礼を行われた宮址に、明治23年に創建された ==> 橿原神宮
主祭神 神武天皇、媛蹈鞴五十鈴媛命((ヒメタタライスケヨリヒメ、皇后)

然りして後に、六合(りくごう)を兼ねて都を開き、八紘(はっこう)を掩(おほ)ひて宇(いへ)にせむこと、亦可(よ)からずや
「八紘」は世界、「一宇」は一家を意味する
→ 八紘一宇(はっこういちう): 人種・民族・宗教等の差別なく、世界のみんなが一つの家に平和に暮らす理想を願った意味合いがある
戦後は、日本の侵略戦争を正当化した言葉として批判されるが、もともと決してそのような意味ではない
日本書紀に記載されているように、即位式に集まった諸氏に対して、「これから国じゅう一軒の家のように仲良くしていこう」という平和宣言である

戦時中、八紘一宇により多くのユダヤ人を救ったことを忘れてはならない
日本とドイツは同盟関係にあったから、ドイツはユダヤ人迫害政策に協力するように申し入れられた
→ 日本政府は、「神武天皇がこの国を開かれたとき、天皇は”八紘(はっこう)を掩(おほ)ひて宇(いへ)となさん”と仰せられた。ユダヤ人を迫害するのは神武天皇のお言葉に反する。」として、協力要請を斥けた
その結果、ユダヤ人を助ける「杉原千畝」のような外交官が出てきたし、満蒙国家を超え、あるいはシベリア鉄道で逃げてきた大勢のユダヤ人を助けた「樋口季一郎」少佐のような軍人もいた 敦賀港や舞鶴港は、「人道の港」と呼ばれた
・・・2600年前に即位した初代天皇の言葉が生きていいた!

(著者の考え)→ このような事実を東京裁判で訴えるべきであった A級戦犯とされた「東條秀機」や「板垣征四郎」もユダヤ人を助けたのである 弁護団がこの事実を明らかにすれば、東京裁判自体が中止された可能性がある

日本の神話は、こうして2600年も日本の歴史に生きていた 神武東征に登場する橿原神宮や籠山神社など、日本の神社が神話時代から続いていることからもわかるように、日本の古代文化は、エジプトのピラミッドや、古代ギリシャの神殿のような単なる遺跡ではなく、現在も生き続けている「生きもの」なのである

天つひつぎの高みくら p.54

橿原神宮(かしはらじんぐう)で即位
紀元節: 古事記や日本書紀で日本の初代天皇とされる神武天皇の即位日をもって定めた祝日。
日付は紀元前660年2月11日。1873年(明治6年)に定められた。

唱歌「紀元節」:
一、雲にそびゆる髙ちほの髙ねおろしに艸も木もなびきふしけん大御世を仰ぐけふこそ樂しけれ
二、うなばらなせるはにやすの池のおもよりなほひろきめぐみのなみにあみし世を仰ぐけふこそたのしけれ
三、天つひつぎの髙みくら千代よろづ世に動きなきもとゐ定めしそのかみを仰ぐ今日こそたのしけれ
四、空にかがやく日の本の萬の國にたぐひなき國のみはしらたてし世を仰ぐけふこそ樂しけれ

          — 紀元節 高崎正風

広開土大碑に刻まれた真実 p.57

日本書紀には、初代・神武天皇から第41代・持統天皇まで、全ての天皇について詳細に記述されている
神武天皇が詠んだ歌も、事件が起こるたびに紹介されている 詩人と呼ばれても差し支えない
→ 戦後の日本では架空の存在として抹殺されている?

神功皇后の三韓征伐も、戦後は史家から異論が出るようになっている
日本書紀 200年頃、仲哀天皇が急死したため、その后がである神功皇后が代わって朝鮮(当時の三韓)を征服
韓国側の史料でも、369年〜390年代に、日本は大規模な遠征を行ったことになっている
中国吉林省(旧満州付近)に残っている「広開土大碑」には、倭の軍隊が平壌近くまで攻め込み、「新羅を破って臣下にしてしまった」と書いてある
・・・韓国はこれを認めていない
日本書紀 神功皇后は、三韓征伐のとき、応神天皇を身籠っていた
朝鮮から凱旋すると応神天皇を出産 その場所をウミ(宇美)と名づけた
応神天皇の皇子が仁徳天皇
仁徳天皇稜は、底面積からは世界最大の墓 → 四世紀には日本に強大な統一国家が存在していた

日本書紀 天皇の悪行は悪行としてそのまま書いている
→ 当時の伝承どおりに書いたと考えられる 公平な歴史書があるということは日本の誇りである
シナの歴史を絶対化し、シナの史書と照らし合わせて、そこに記載の倭王が〇〇天皇であるというのは、学者のお遊びのにすぎない

「皇室典範」の意義 p.62

男系の皇位をいかに継承していくかという問題
2600年続いている間に、男系断絶の危機が何度かあったが、偶然や強い意志によって今日まで続いている

・・・明治天皇、大日本帝国憲法を起草した伊藤博文、井上毅(いのうえこわし)も重く見て、「皇室典範」を制定した
第一章  皇位継承
第一條  皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。

国体の本義
天佑ヲ享有シタル我カ日本帝國ノ寳祚ハ萬世一系歷代繼承シ以テ朕カ躬ニ至ル
惟フニ祖 宗肇國ノ初大憲一タヒ定マリ昭ナルコト日星ノ如シ
今ノ時ニ當リ宜ク遺訓ヲ明徵ニシ皇家ノ成典ヲ制立シ以テ丕基ヲ永遠ニ鞏固ニスヘシ
茲ニ樞密顧問ノ諮詢ヲ經皇室典範ヲ裁定シ朕カ後嗣及子孫ヲシテ遵守スル所アラシム
(意味)皇位は万せ一系、歴代継承して自分に至っている。
このたび皇室の遺訓を明らかにして成文化することにより、国家の礎を永遠に強固なものとする。
枢密顧問の諮問を経て皇室典範を定め、後継者および子孫にこれを順守させる。

男系断絶の危機の一番目 第21代雄略天皇から第22代清寧天皇の御代

民間から発見された天皇 p.64

日本書紀 第21代雄略天皇 (ゆうりゃくてんのう)は皇族をずいぶん殺害している → 皇室の人々が地方に逃げ、身を隠してしまった
雄略天皇の跡を継いだ清寧天皇には子供がいなかった → 播磨の国で皇位継承者が二名発見された 
雄略天皇に殺された市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の子で、第17代履中天皇の孫にあたる億計王(おけのみこ)と弘計王(をけのみこ)の兄弟
弟の弘計王(をけのみこ) → 第23代顕宗天皇(けんぞうてんのう)
兄の億計王(おけのみこ) → 第24代仁賢天皇(にんけんてんのう)

仁賢天皇の皇子が第25代武烈天皇(ぶれつてんのう)
第2回目の危機 第25代武烈天皇にも子がいなかった 
→ 第15代応神天皇の系図をあたり、その五代目である継体天皇を第26代天皇に立てた

いずれも、女のきょうだいがいてもそれは無視して、男系を守った

越前にいた応神天皇の子孫 p.67

日本書紀 第26代継体天皇を探しだしたときの話が詳しく述べられている
大伴金村は、第14代仲哀天皇の五代目の倭彦王(やまとひこのおおきみ)が丹波にいるの知り迎えに行く
大伴氏の始祖は、天孫降臨のときに瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の前衛の役を務めた天忍日命(あめのおしひのみこと)である
倭彦王は、迎えの兵士の姿を見て、山中に逃げて行方不明となる

そこで、大伴金村は応神天皇の系譜を調べ、越前の国で男大迹王(おおどのおおきみ)、後の継体天皇を見つける
→ 継体天皇は、樟葉宮(くずはのみや)で即位

朝鮮にも「神道」があった p.69>

古代には多くの百済人が渡来し、帰化していたと思われる
百済の住民も、おそらく南方系の民族であったから、九州にいる部族とあまり変わらず、言語も共通したものがあったようである

王仁(わに): 応神天皇の時代に辰孫王と共に百済から日本に渡来した百済人
波津の歌(なにわづのうた)王仁の作: 難波津(なにはづ)に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花
(意味)難波津に梅の花が咲いているよ 長い冬ごもりが終わって いまはもう春になったと梅の花がさいているよ
→ 古今和歌集の編者・紀貫之は、王仁(わに)のことを、「和歌の父」と称えている 百人一首の競技の前にはこの歌が詠みあげられている

百済人の王仁にすぐれた和歌が詠めたということは、日本と百済の言語が共通化していたと考えられる
百済が唐と新羅に攻めこまれたとき、日本は救援軍を派遣しているのは、百済を親類のように考えていたからだろう
百済の宗教も、日本の神道と同じであったと考えられる
白村江の戦いに敗れて亡命した百済の貴族のなかに「鬼室(きしつ)」という一族がいた
→ 近江に領地を与えられ、鬼室集斯は「鬼室神社」を建てている・・・百済にも神道があった証拠であろう

仏教伝来以前の朝鮮の宗教・・・神道ではなかっただろうか ・・・百済は北方の騎馬民族に侵され、日本と同質の民族であったという痕跡も、今では消え去っている
済州島 海女がいることからも分かるように、海洋民族の名残がある 「王は東から来た」との」伝承も残っている

日本は垂直的な「中国(なかつくに)」 p.72

高天原
葦原中国(あしはらのなかつくに)
黄泉の国

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第3章 言霊の栄える国ー古事記・日本書紀・万葉集
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山上憶良による「日本」の定義 p.80<br>

好去好来(かうきよかうらい)の歌一首 反歌二首

神代より 言(い)ひ伝(つ)て来(く)らく そらみつ 倭(やまと)の国は 皇神(すめがみ)の 厳(いつく)しき国 言霊(ことだま)の 幸(さき)はふ国と 語り継(つ)ぎ 言ひ継かひけり 

今の世の 人も悉(ことごと) 目の前に 見たり知りたり 人多(さは)に 満ちてはあれども 高光る 日の朝廷(みかど) 神(かむ)ながら 愛(めで)の盛りに 天(あめ)の下(した) 奏(まを)し給ひし 家の子と 撰(えら)び給ひて 勅旨(おほみこと)〔反(はん)して、大命(おほみこと)といふ〕 戴(いただ)き持ちて 唐(もろこし)の 遠き境に 遣(つかは)され 罷(まか)り坐(いま)せ 

海原(うなはら)の 辺(へ)にも奥(おき)にも 神(かむ)づまり 領(うしは)き坐(いま)す 諸(もろもろ)の 大御神(おほみかみ)たち 船舳(ふなのへ)に〔反して、ふなのへにと云ふ〕 導き申(まを)し 天地の 大御神たち 倭(やまと)の 大国霊(おほくにみたま) ひさかたの 天(あま)の御空(みそら)ゆ 天翔(あまかけ)り 見渡し給ひ 

事了(ことをは)り 還らむ日には またさらに 大御神たち 船舳(ふなのへ)に 御手(みて)うち懸けて 墨繩(すみなは)を 延(は)へたる如く あちかをし 値嘉(ちか)の岬(さき)より 大伴の 御津(みつ)の浜辺(はまび)に 直泊(ただは)てに 御船(みふね)は泊(は)てむ 恙無(つつみな)く 幸(さき)く坐(いま)して 早帰りませ

(意味)
神の御代より言い伝え来ることには、空に満ちる大和の国は、神である天皇の統治される厳しき国で、言霊の幸ある国と語り継ぎ、言い継いで来た。

それは今の世の人々もことごとく目の前に見て知っている。
人は多く満ちているのに、高く輝く日の朝廷で神であられる天皇が最も愛され、天下を統治された家柄の子として、あなたをお選びになられて、あなたは天皇のお言葉〔勅旨は、大命(おほみこと)と読む〕を奉戴して、唐の遠き国土に遣わされ出立されます。

大海の岸にも沖にも神としてとどまり、支配される大御神たちは、船の先〔船舳は、フナノヘと読む〕に立って先導し申し、天地の大御神たちは、大和の大国神をはじめ、はるか彼方の天の御空から飛び翔けて見渡しなさるでしょう。

そして無事に使命を終えて帰られる日には、またさらに大御神たちは船の先に御手をかけて、墨縄を引きのばしたように、あちかをし値嘉の岬を通って、大伴の御津の浜辺にまっすぐに泊まるべく御船は帰港するでしょう。つつがなく幸せにいらっしゃって、早くお帰りください。

山上憶良による「日本」の定義 p.80
①神である天皇の統治される厳しき国 → 神話の時代から王朝が絶えることなく男系で繋がっている国(皇統の尊厳)
②言霊の幸ある国と語り継ぎ、言い継いで来た → 古代から歌があり、古代語で書かれた神話がある国(やまとことばの言霊)

江戸時代の国学者たち 「やまとことば」は、活用の変化により時制が表わせ、助詞によりさまざまな動作や状態を表すことができると気づいた
→ 江戸より一千年も前に、山上憶良は気づいていた・・・「わがやまとことばは、なんとしなやかで美しい言葉だろうか」
漢文 文法がなく(動詞・名詞の区別なし)、時制がなく、句読点もない → コミュニケーションの道具(意味さえ通じればよい) 

「こと」の「は」の霊力 p.84

言霊とは何か → 言葉に霊力があるということ
「こと」や「もの」・・・「霊」が宿っている
山や川や木: 神性がある
「ことば」は「こと」の「は」 → 神秘的な「こと」の「瑞(は)」が出てきたもの(「こと」を動かす力がある)
吉事(よごと)・・・めでたい言葉を用いると良いことが起こる
兇事(まがごと)・・・まがった言葉を用いると良くないことが起こる

名前 呪いをかけられては困るので、親子とか夫婦の間でしか知らせないこともあった
万葉集の巻頭歌 雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)の歌
籠(こ)もよ み籠(こ)もち ふくしもよ みぶくし持ち この丘(をか)に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家聞かな 名告(の)らさね そらみつ やまとの国は おしなべて 吾(われ)こそをれ しきなべて 吾(われ)こそませ 我こそは 告(の)らめ 家をも名をも (巻一・一)
(意味)籠よ、立派な籠を持ち、掘串(ふくし)よ、 立派な掘串をもって、この岡に菜を摘んでおられる娘よ。 家と名前を申せ。この大和の国は、すべてこのわれが治めているのだ。 全体的にわれが支配しているのだ。 まずはわれこそ、家も名も教えてやろう
求婚の歌「家を聞きたい、名前を言いなさい」 → 名前を言ったら夫婦である

万葉集の最後 編者の大伴家持の歌
新しく 年の初めの初春の きょう降る雪の いやしけ吉事(よごと)
(意味)新年のこの雪のように、吉事(よごと)もどんどん降り積もってほしいものだ

和歌の前に万人平等 p.86

万葉集は、求婚の歌ではじまり、末代までの繁栄を願う歌で終わっている。
作者: 天皇、兵士、農民、遊女、古事記・・・身分の差が見られない 男女の差もない 地域の差もない
和歌の前に平等 → 現在の「歌会始め」に通じる
ユダヤ教・キリスト教: 神の前に平等
ローマ帝国: 法のまえに平等

バベルの塔とゲルマン語

バベルの塔 旧約聖書の創世記に登場 人間が天に達するほどの高い塔をバビロンに築き始めたのを神が怒り、それまで一つであった人間の言葉を混乱させた そのため人々は建設を諦め、各地に散っていった
・・・ゲルマン人は、バベルの塔の建設にかかわっていない → 最初の人間のアダムが話していた言葉が、ゲルマン人には伝わっているはずだ
ゲルマン語の語源を遡ると、すべての根源的な本質がわかる

和歌と「やまとことば」 p.92

言語学に関しては、日本人はゲルマン人に近いと言えるだろう
日本の言葉は尊いという言霊意識は、いまも続いている

シナの古典や仏教の経典は漢字で伝わった
日本人には言霊崇拝があるので、和歌は「やまとことば」しか使わなかった
元来は漢語の言葉が、日本語として定着し和歌にも使われることもあった
 菊: 「キク」という「音(おん)」のみで「訓読み」がない
 衛士(えじ): 「エジ」という「音(おん)」のみで「訓読み」がない
漢詩→ 客観的な観照(かんしょう)(知的)
和歌→ 主観的な感傷が述べられている(情的)

漢詩は日本語を豊かにした p.95

異質なものを同化するとき、その人の教養は次元を一つ高めて拡大する
古代の日本人 漢詩を読むことにより、自然に対する新しい目を開き、それを和歌にも導入した
シナ文学の研究と実践 → 国文学の肥料となった

朝鮮人が自分たちの文字をであるハングルを持ったのは、十五世紀の半ば(日本の足利時代)
国王・世宗(せいそう)が作ったが、国民に浸透せず、一旦は忘れ去られた
明治時代になり、福沢諭吉がその普及に努め、日韓併合後に、朝鮮総督府が学校で教えることにより、一般に広まった

口伝による国史編纂 p.97
国史編纂を命じた第40代天武天皇(673〜686)の遺志を継いで「古事記」を作らせたのは、息子の草壁皇子(くさかべのみこ)の后である第43代元明天皇
古事記の目的は、天皇家の系図や古い伝承を保存すること
聖徳太子と蘇我馬子が編纂した史書「天皇記」と「国記」が、馬子の息子・蘇我蝦夷が滅ぼされた時に焼失しているので、一つにまとめようとする気持ちがあったのだろう
古事記 元明天皇が太安万侶に命じて、稗田阿礼(ひえだのあれ)の口述を筆録・編纂

漢字で表された日本語 p.102

古事記 口伝(くでん)を、表音文字ではなく、漢字を用いて日本語を映しながらも、漢語で簡略できるところは漢語を使う → 和漢混在方式  ==> 古事記・全文検索
日本書紀 元正天皇が舎人親王を総裁にして編纂させた 漢文で記述  ==> 日本書記・全文検索

(同一内容の比較)
古事記 次國稚如浮脂而久羅下那州多陀用幣流之時流字[以上十字以音]、
次に国稚(わか)く浮きしあぶらの如くして、水母(くらげ)なす漂(ただよ)えるとき[「流」の文字以上の十文字は音を以てす]

日本書記 開闢之初、洲壤浮漂、譬猶游魚之浮水上也。
開闢(あめつちひら)くる初めに、洲壤(くにつち)の浮かび漂えること、譬(たと)えば遊ぶ魚(いを)の水の上に浮けるが猶(ごと)し

「日本書紀」の公平さ p.104

日本書紀が漢文で書かれたのは、シナ対しても恥ずかしくないものを作ろうという意図があった

シナの歴史書と異なるのは、「神代」を扱っている点である
前漢の司馬遷(しばせん)は、「史記」を書いた時、神話・伝説の類を切り捨てている
シナの官選の歴史は、王朝が替わる度に、それを倒した王朝が書くので、日本の修史とは意味が違う

日本では、わざわざ「神代巻」をつくり、しかも多くの伝承されているバリエーションを「一書ニ曰ク」の形で全て記載している
複数の伝承を併記するような書き方は、極めて良心的である
戦後、記紀は「皇室正当化」の書であると決めつけ、その史的公平さを疑う風潮があったが、歴代天皇の悪事や、「一書ニ曰ク」として異説も併記しているのであるから、自由で公平なものと言える

「古事記」の偽書説 p.107

  古事記の偽書説: 成立は712年であるが、それよりずっと後になってからできたものとする説
理由:日本書紀の「一書ニ曰ク」の中に、古事記が出てこない 
→ 古事記は天皇の命により編まれた本であるので、各部族の伝承の「一書」とはランクが違う
古事記の和漢混在方式が気に入らない人たちがいて、正式な漢文で史書を作ろうとして日本書紀を編纂した都」解釈すべきである

記紀が日本人の歴史観をつくった p.109

古事記や日本書紀は、敗戦まで日本人の歴史観の根底にあった
戦後、学者がいろいろな仮説が出されるようになったが、重要なことは、それが必ずしも「日本史の理解にはならない」ということである
日本人は、千数百年間にわたり、自分たちの歴史を古事記や日本書紀により認識し、行動してきたのである
邪馬台国がどこにあったのか、卑弥呼は何者なのか・・・などは、戦前の日本人は興味がなかった
江戸時代の学者・伊勢貞丈(いせさだたけ)は、「いにしえをいにしえの目で見る」、つまり「古代を古代の目で見る」と言った
古代を知るには、古代人の目、つまり古代人のものの見方や考え方」を知らなければならない → それによって、初めてのの時代の歴史をみることができるのだ 「いにしえをいにしえの目で見る」という姿勢を忘れてはならない

邪馬台国論争の不毛 p.112

邪馬台国論争 「魏志倭人伝」に記載された女王卑弥呼の都とされる邪馬台国がどこにあったのかをめぐる論争こと
卑弥呼は、わずか二千文字にすぎない「魏志倭人伝」しか登場しない
魏志倭人伝をいくらいじくり回しても、日本の古代がわかるわけがない

「大和」と「出雲」の婚姻の歌 p.117

天照大神の高天原系(天孫族)も、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の出雲系も姉弟の神々の子孫であり、同族であったと考えられる
一族の中に、山陰に移り住んだ人々や、九州に根をおりした人々がいて、それらとの間に交渉があったと考えるのが適切だろう

それぞれに国の始まりをうたった歌が残っている:
(天孫族)神武天皇 葦原の 繁(しげ)こき小家(をや)に 菅畳(すがたたみ) いや清(さ)や敷きて 我が二人寝し
(出雲族)素戔嗚尊 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を
いずれも結婚の歌である

神武天皇は実在した p.120

大和も出雲も、和歌の始まりは結婚の歌である → 両者が同じ民族であることを示している
大和を征服側、出雲を被征服側とする考えには、誤りがある
天孫系と出雲系は平和裡に合体した
そうでなければ、関西には素戔男尊を祀った祇園神社があることが説明できない
日本書紀
天照大神と素戔男尊の間に争いが起こったときに、お互いに悪意のないことを示すために、禊をしてから、誓約(うけい)を交わし、子供である三人の女神と五人の男神を交換した → 天孫系と出雲系は平和裡に合体した

神武天皇が実在した理由 日本書紀には神武天皇(神日本磐余彦天皇)を作者とする膨大な長歌や短歌が収められている
これだけの古代歌謡をつくった国王を架空の人物とするような国は、世界中どこを探してもない

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第4章 仏教渡来と神道ー聖徳太子の現代性
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仏教は後宮から皇室に入った p.124

仏教伝来は、第29代欽明天皇十三年(552年)とされている・・・百済の聖明王(せいめいおう)から仏像と経典が献上された
欽明天皇 「この仏像を祀るべきであろうか」と大臣たちに尋ねた
→ 蘇我氏 推進派 「西の諸国ではみなこれを礼拝している 日本の国だけがどうして背くことができようか」
→ 大伴・物部・中臣氏 国粋派 「外国の神様を祀るのはよくない」

第30代敏達天皇 日本書記 「法仏を信ぜず、文書を愛した」・・・シナの学問は好きだが、仏教は信じなかった 蘇我氏の血縁ではない
第31代用明天皇 蘇我氏の血縁 初めて仏教を信ずるようになった・・・欽明天皇と蘇我稲目の娘・堅塩媛(きたしひめ)との間の子
第32代崇峻天皇 蘇我氏の血縁

敏達天皇は仏教を信じなかったが、すでに後宮から皇室に入り込んでいた (後宮:天皇や王などの后妃や、その子が住まう場所)

仏教に帰依した最初の天皇 p.128

「用命天皇が外国の宗教を受け入れた」ことは、日本人にとって大した問題ではなかった
宗教というよりは新しい技術を導入したような感覚だったのではないだろうか
日本書紀 用明天皇は「仏の法(のり)を信じられ、神の道を尊ばれた」とある
→ 「法」と「道」では、「道」が優先される
仏のいいところは信じようとした神と仏の共存共栄は、以後、日本の独特な伝統となる

反仏教派・物部氏の滅亡 p.130

用明天皇崩御後に後継者をめぐる争いがあった。
蘇我氏(仏教崇拝派)と物部氏(仏教排斥派)の争い → 蘇我氏が勝利し、崇峻天皇(すしゅんてんのう)即位
政治の実権は、蘇我馬子 → 崇峻天皇の暗殺

崇峻天皇の蜂子皇子(はちのこおうじ)は京都の丹後国の由良から、山形の庄内の由良に海路で逃げる。その時の船出の歌
梯立の倉橋山に 立てる白雲 みまく欲り わがするなべに 立てる白雲  万葉集:作者不詳
(意味) 倉橋山に立っている白い雲よ。見たいなと思うと同時に立ってきた白い雲であるよ。

推古天皇(すいこてんの)が即位、聖徳太子が摂政となり国政を担う

日本の自主外交の始まり p.133

聖徳太子が随に送った国書:
「日出ずる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや」とあり、
それを受け取った煬帝は「これを覧て悦ばず。鴻臚卿(外務大臣)にいっていわく、蛮夷の書、無礼なるものあり、また以聞(奏上)するなかれ」と言ったという。
隋から見て東方の夷人の国にすぎない日本の聖徳太子が、対等なものの言い方で交渉に臨んできたので、無礼であると悦ばなかったわけである。 しかし結局、煬帝は結局聖徳太子の国書を受け取り、翌年は裴世清を日本に使わしている。

二度目の国書の記述:  「東の天皇、敬(つつし)みて西の皇帝に白(もう)す。」
推古天皇十五年(607年)、日本の自主外交の始まりである

「新しい学問を敬え」 p.135

十七条憲法
憲法は、「いつくしきのり」と読むらしい 「いつく」は「斎く」: 「心身を清めて神に仕える」という意味
→ 憲法とは厳かな気持ちで取り扱うべき掟のこと

「十七」という数字は、仏陀が維摩経(ゆいまきょう)に、浄土をつくる源となるべき菩薩の心事を十七項目挙げてあることによるとされている
第一条 「和をもって貴しとなす」
第二条 「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧(ほとけ・のり・ほうし)なり」
聖徳太子の憲法に流れている思想系統は、儒教、仏教の他に、法家や道家の思想も入れられている
そのほか詩経、書経、論語、孟子、荘子、中庸、礼記(らいき)、管子、史記、文選(もんぜん)などからも採用されている

仏教は、当時は優れた宗教哲学としてのみ存在し、大祈祷など、こんちの仏教が行うようなことしていなかった
「法(のり)」とは優れた学説、「僧(ほうし)」とは学者である → 「新しい学問、新しい文化を尊べ」ということ
聖徳太子が寺を建てたのは、今日の大学とか病院を建てたようなものであった

神道の記述がないのは、あまりも当たり前すぎて、わざわざ憲法で規定するようなことはないからである

「十七条憲法」の理念 p.138

聖徳太子の「十七条憲法」は、現在の日本人にも自然にうなずける内容であるから、まさに日本最初の憲法というにふさわしく、近代的な意味でも憲法の名にふさわしいものである
世界最初といわれる成文憲法は、アメリカ合衆国憲法(1788年)といわれるが、その約1200年前に、日本が単なる掟ではない憲法をもっていたことは驚くべきことである

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一に曰わく、和を以て貴しとなし、さからうことなきを宗とせよ。人皆党あり、またさとれる者少なし。ここを以て、あるいは君父にしたがわず、また隣里に違う。しかれども、上かみ和らぎ下睦びて、事を論ずるにかなうときは、則ち事理自から適ず。何事か成らざらん。

訳文「和を大切にし人といさかいをせぬようにせよ。人にはそれぞれつきあいというものがあるが、この世に理想的な人格者というのは少ないものだ。それゆえ、とかく君主や父に従わなかったり、身近の人々と仲たがいを起こしたりする。しかし、上司と下僚がにこやかに仲むつまじく論じ合えれば、おのずから事は筋道にかない、どんな事でも成就するであろう。」
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二に曰わく、篤く三宝を敬え。三宝とは仏と法と僧となり。即ち四生の終帰、万国の極宗なり。いずれの世、いずれの人か、この法を貴ばざる。人、はなはだ、悪しきものすくなし。よく教うれば従う。それ三宝によらずんば、何を以てかまがれるを直さん。

訳文「篤く仏教を信仰せよ。仏教はあらゆる生きものの最後に帰するところ、すべての国々の仰ぐ究極のよりどころである。どのような時代のどのような人々でも、この法をあがめないことがあろうか。心底からの悪人はまれであり、よく教え諭せば必ず従わせることができる。仏教に帰依しないで、どうしてよこしまな心を正すことができよう。」
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三に曰わく、詔を承けては必ず謹め、君は則ち天たり、臣は則ち地たり。天覆い地載せて、四時順行し、万機通うことを得。地、天を覆わんと欲するときは、則ち壊るることを致さんのみ。ここをもって、君のたまえば臣承り、上行えば下なびく。故に詔を承けては必ず慎め。謹まずんば自から敗れん。

訳文「天皇の命を受けたら、必ずそれに従え。譬えるなら君は天、臣は地。天が万物を覆い、地が万物を載せる。それによって四季は規則正しく移りゆき、万物を活動させるのだ。もし地が天を覆おうとするなら、この秩序は破壊されてしまう。そのように、君主の言に臣下は必ず承服し、上の者が行えば下の者はそれに従うのだ。だから、天皇の命を受けたら必ず従え。もし従わなければ、結局は自滅するであろう。」
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四に曰わく、群卿百寮、礼を以て本とせよ。それ民を治むるの本はかならず礼にあり、上礼なきときは下ととのわず。下礼なければ以て必ず罪あり。ここを以て、群臣礼あるときは位次乱れず、百姓礼あるときは国家自から治まる。

訳文「群卿(大夫と呼ばれる上位官吏)や百寮(各官司の役人)は、みな礼法を物事の基本とせよ。民を治める肝要は、この礼法にある。上の者の行いが礼法にかなわなければ下の者の秩序は乱れ、下の者に礼法が失われれば罪を犯す者が出てくる。群臣に礼法が保たれていれば序列も乱れず、百姓に礼法が保たれていれば国家はおのずと治まるものである。」
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五に曰わく、餐を絶ち、欲を棄てて、明らかにうつたえをわきまえよ。それ百姓の訴は一日に千事あり、一日すらなおしかり、況んや歳を累ぬるをや。このごろ、訴を治むる者、利を得るを常となし、賄を見てことわりを聴く。すなわち、財あるものの訟は、石に水を投ぐるが如く、乏しき者の訴は、水を石に投ぐるに似たり。ここを以て、貧しき民は則ち由る所を知らず。臣の道またここにかく。

訳文「食におごることをやめ、財物への欲望を棄てて、訴訟を公明にさばけ。百姓の訴えは一日に千件にも及ぼう。一日でもそうなのだから、年がたてばなおさらのことだ。近ごろ、訴訟を扱う者は私利を得るのをあたりまえと思い、賄賂を受けてからその申し立てを聞いているようだ。財産のある者の訴えは石を水に投げ込むように必ず聞き届けられるが、貧乏人の訴えは水を石に投げかけるように、手ごたえもなくはねつけられてしまう。これでは貧しい民はどうしてよいかわからず、臣としての役人のなすべき道も見失われることだろう。」
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六に曰わく、悪を懲し、善を勧むるは、古の良典なり。ここを以て、人の善を匿すことなく、悪を見ては必ず匡せ。それへつらい詐く者は、即ち国家を覆すの利器たり、人民を絶つの剣たり。またかたましく媚ぶる者は、上に対しては即ち好んで下の過を説き、下に逢いては則ち上の失を誹謗る。それかくの如きの人は、みな君に忠なく、民に仁なし。これ大乱の本なり。

訳文「悪しきを懲らし善きを勧めるということは、古からのよるべき教えである。それゆえ、人の善行はかくすことなく知らせ、悪事は必ず改めさせよ。人におもねり、人をあざむく者は国家をくつがえす利器ともなり、人民を滅ぼす鋭い剣ともなる者だ。また、媚びへつらう者は、上の者には好んで下の者の過失を告げ口し、下の者に会えば上の者を非難する。このような人々はみな君に対して忠義の心がなく、民に対しては仁愛の心がない。大きな乱れのもととなることだ。」
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七に曰わく、人おのおの任あり。掌ること宜く濫れざるべし。それ賢哲官に任ずるときは、頌音すなわち起こり、奸者官をたもつときは、禍乱すなわち繁し、世に生まれながら知るもの少なし、克くおもいて聖を作る。事大少とな、人を得て必ず治まり、時急緩となく、賢に遇えば自から寛なり。これによって、国家永久にして社稷危きことなし、故に古の聖王は官のために人を求め、人のために官を求めず。

訳文「人にはそれぞれの任務がある。おのおの職掌を守り、権限を濫用しないようにせよ。賢明な人が官にあれば政治をたたえる声がたちまちに起こるが、よこしまな心をもつ者が官にあれば政治の乱れがたちどころに頻発する。世間には生まれながら物事をわきまえている人は少ない。よく思慮を働かせ、努力してこそ聖人となるのだ。物事はどんな重大なことも些細なことも、適任者を得てこそなしとげられる。時の流れが速かろうと遅かろうと、賢明な人にあったときにおのずと解決がつく。その結果、国家は永久で、君主の地位も安泰となるのだ。だから古の聖王は、官のために適当な人材を集めたのであり、人のために官を設けるようなことはしなかったのだ。」
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八に曰わく、群卿百寮、早くまいりておそくまかでよ。公事もろきことなし、終日にも尽くしがたし。ここを以て、遅く朝(まい)れば急なることに逮(およ)ばず、早く退るときは必ず事尽さず。

訳文「群卿や百寮は、朝は早く出仕し、夕は遅く退出するようにせよ。公務はゆるがせにできないものであり、一日かかってもすべてを終えることは難しい。それゆえ、遅く出仕したのでは緊急の用事に間に合わないし、早く退出したのでは事務をし残してしまう。」
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九に曰わく、信はこれ義の本なり。事毎に信あれ。それ善悪成敗はかならず信にあり。群臣共に信あるときは、何事か成らざらん。群臣信なきときは、万事悉く敗れん。

訳文「信は人の行うべき道の源である。何事をなすにも真心をこめよ。事のよしあし、成否のかなめはこの信にある。群臣がみな真心をもって事にあたるなら、どのようなことでも成するだろう。しかし真心がなかったら、すべてが失敗するだろう。」
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十に曰わく、こころのいかりを絶ちおもてのいかりを棄て、人の違うを怒らざれ。人みな心あり、心おのおの執るところあり。彼是とすれば則ち我は非とす。我是とすれば則ち彼は非とす。我必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫のみ。是非の理、なんぞよく定むべき。相共に賢愚なること、みみがねの端なきが如し。ここを以て、彼の人いかるといえども、還ってわが失を恐れよ。われ独り得たりといえども、衆に従いて同じくおこなえ。

訳文「心に憤りを抱いたり、それを顔に表したりすることをやめ、人が自分と違ったことをしても、それを怒らないようにせよ。人の心はさまざまでお互いに相譲れないものをもっている。相手がよいと思うことを自分はよくないと思ったり、自分がよいことだと思っても相手がそれをよくないと思うことがあるものだ。自分が聖人で相手が愚人だと決まっているわけではない。ともに凡夫なのだ。是非の理をだれが定めることができよう。お互いに賢人でもあり、愚人でもあるのは、端のない鐶(リング)のようなものだ。それゆえ、相手が怒ったら、むしろ自分が過失を犯しているのではないかと反省せよ。自分ひとりが、そのほうが正しいと思っても、衆人の意見を尊重し、その行うところに従うがよい。」
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十一に曰わく、明らかに功と過とを察して、賞を罰とを必ず当てよ。このごろ、賞は功においてせず、罰は罪においてせず、事を執る群卿、よろしく賞と罰とを明らかにすべし。

訳文「官人の功績や過失をはっきりとみて、それにかなった賞罰を行うようにせよ。近ごろは、功績によらず賞を与えたり、罪がないのに罰を加えたりしていることがある。政務にたずさわる群卿は、賞罰を正しくはっきりと行うようにすべきである。」
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十二に曰わく、国司・国造、百姓におさめとることなかれ。国に二君なく、民に両主なし。率土の兆民は王をもって主となす。任ずる所の官司はみなこれ王の臣なり、何ぞ公とともに百姓に賦斂せんや。

訳文「国司や国造は、百姓から税をむさぼり取らぬようにせよ。国にふたりの君はなく、民にふたりの主はない。この国土のすべての人々は、みな王(天皇)を主としているのだ。国政を委ねられている官司の人々は、みな王の臣なのである。どうして公の事以外に、百姓から税をむさぼり取ってよいであろうか。」
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十三に曰わく、もろもろの官に任ずる者、同じく職掌を知れ。あるいは病し、あるいは使して、事をかくことあらん。しかれども、しることを得るの日には、和すること曾てより識れるが如くせよ。それあずかり聞くことなしというを以て、公務を妨ぐることなかれ。

訳文「それぞれの官司に任じられた者は官司の職務内容を熟知せよ。病気や使役のために事務をとらないことがあっても、職務についたなら以前から従事しているかのようにその職務に和していくようにせよ。そのようなことに自分は関知しないといって、公務を妨げるようなことがあってはならない。」
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十四に曰わく、群臣百寮、嫉妬あることなかれ、われすでに人を嫉めば、人またわれを嫉む。嫉妬の患い、その極りを知らず。ゆえに、智おのれに勝るときは則ち悦ばず、才おのれに優るときは則ち嫉妬む。ここを以て、五百(いおをせ)にしていまし今、賢に遇うとも、千載にして以て一の聖を待つこと難し。それ賢聖を得ざれば、何を以てか国を治めん。

訳文「群臣や百寮は人をうらやみねたむことがあってはならない。自分が人をうらやめば、人もまた自分をうらやむ。そのような嫉妬の憂いは際限がない。それゆえ、人の知識が自分よりまさっていることを喜ばず、才能が自分よりすぐれていることをねたむ。そんなことでは五百年たってひとりの賢人に出会うことも、千年たってひとりの聖人が現れることも難しいだろう。賢人や聖人を得なくては、何によって国を治めたらよいであろうか。」
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十五に曰く、私に背きて公に向うは、これ臣の道なり。およそ人、私あれば必ず恨みあり。憾みあれば必ず同(ととのお)らず。同らざれば則ち私を以て公を防ぐ。憾起るときは則ち制に違い法を害う。故に初めの章に云わく、上下和諧せよと。それまたこの情なるか。

訳文「私心を去って公の事を行うのが臣たる者の道である。人に私心があれば他人に恨みの気持ちを起こさせる。恨みの気持ちがあれば人々の気持ちは整わない。人々の気持ちが整わないことは私心をもって公務を妨げることであり、恨みの気持ちが起これば制度に違反し法律を犯すことになる。第一の章で上下の人々が相和し協調するようにといったのもこの気持ちからである。」
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十六に曰わく、民を使うに時を以てするは、古の良典なり。故に、冬の月にはいとまあり、以て民を使うべし、春より秋に至るまでは農桑の節なり、民を使うべからず。それ農(たつく)らざれば何をか食わん。桑(くわと)らざれば何をか服(き)ん。

訳文「民を使役するのに時節を考えよとは、古からのよるべき教えである。冬の月の間(10〜12月)に余暇があれば民を使役せよ。春から夏にかけては農耕や養蚕の時節であるから、民を使役してはならない。農耕をしなかったら何を食べればよいのか。養蚕をしなかったら何を着ればよいのか。」
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十七に曰わく、それ事は独り断むべからず。必ず衆とともによろしく論ずべし。少事はこれ軽し、必ずしも衆とすべからず。ただ大事を論ずるに逮(およ)びて、もしは失(あやまち)あらんことを疑う。故に、衆とともに相弁(あいわきま)うるときは、ことばすなわち理を得ん。

訳文「物事は独断で行ってはならない。必ずみなと論じあうようにせよ。些細なことは必ずしもみなにはからなくてもよいが、大事を議する場合には誤った判断をするかも知れぬ。人々と検討しあえば、話し合いによって道理にかなったやり方を見出すことができる。」
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           (四天王寺編「聖徳太子と四天王寺」の訳文によった

天才・聖徳太子の「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」

三経義疏(さんぎょうぎしょ)
聖徳太子によって著されたとされる『法華義疏』、『勝鬘経義疏』、『維摩経義疏』の総称である。
それぞれ『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の三経の注釈書である。

法隆寺建立(607年) 聖徳太子と推古天皇が建立、670年に再建されたという説もある
世界最古の木造建築、奈良県生駒郡斑鳩町
石造りの万里の長城やギリシャ神殿が観光資源にすぎない廃墟となっているのに対し、木造りの法隆寺は生きている・・・これはまさに驚異的なことである

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第5章 律令制度と日本的仏教の成熟
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蘇我氏に対する宮中のクーデター p.146

蘇我氏の横暴: 馬子→蝦夷(えみし)→入鹿(いるか)
聖徳太子の子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)も王子とともに入鹿に打たれ、血筋が絶えてしまった

この蘇我氏の横暴を憎んだのが、代々神事・祭祀職を努め、反仏教派であった中臣氏の若き秀才の鎌足であった
乙巳の変(いっしのへん):
飛鳥時代645年に中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を宮中にて暗殺して蘇我氏を滅ぼした政変

中央集権国家をめざした「大化の改新」 p.148

第35代・皇極天皇(こうぎょくてんのう)退位
第36代・孝徳天皇(こうとくてんのう)
皇子となった中大兄皇子(後の天智天皇)は、孝徳天皇とともに「帝道はただ一つであr.天はわが手をお借りになって暴虐の徒(蘇我氏)を誅滅した。これより後は、君に二政なく、臣に二朝なし」と神々に誓わせた
第37代・斉明天皇(さいめいてんのう)、第38代・天智天皇と続く

失敗に終わった土地の国有化 p.150

蘇我入鹿を討った皇極天皇4年を大化元年とし、大化二年に「改新の詔(みことのり)」が出され「大化の改心」がなされた
大宝律令(701年)、養老律令(718年)で完成

「公地公民制」は、私有財産を廃止し、すべての土地と人民は天皇に帰属し公有化するというもの
→ 土地を大切にする農民の反発により失敗する
→ 聖武天皇の時代に「墾田永年私財法」(743年)が出され、貴族や寺院は広大な土地を私有した・・・中臣鎌足を始祖とする藤原氏が圧倒的に多くの土地を所有し力を持つようになった

天智天皇と天武天皇 p.153

同盟国である百済が唐・新羅に攻められ、中大兄皇子は百済救済軍を朝鮮半島に派遣するが、白村江の戦い(663年)に敗れ、帰国した。
国防のために壱岐・対馬・筑紫に防人(さきもり)や烽(とぶひ のろしの設備)を置いた。
都を飛鳥から近江大津に移し、天智天皇になった。

壬申の乱(672年): 大海人皇子は天智天皇の弟、大友皇子は天智天皇の子ども。ふたりは叔父と甥の関係。天皇家のルールでは、天皇に同じ母から生まれた弟がいる場合は、現行の天皇の後継者は弟であるとされていた。つまり大海人皇子が正統な後継者である。
ところが、天智天皇は弟よりも自分の子どもである大友皇子を後継者にしたいと考えた。
天智天皇の決断をきっかけに、彼らは皇位を巡って争うようになった。
壬申の乱の結果、673年に大海人皇子が即位し「天武天皇(てんむてんのう)」となる

初めての天皇の祖父となった藤原不比等 p.155

藤原不比等は、天智天皇から藤原の姓を賜った藤原鎌足の子である
藤原不比等は、結婚政策により藤原時代を築いていった
娘の宮子(みやこ)が、第42代・文武天皇と結婚し、首皇子(おびとのみこ 後の聖武天皇)を生んだ
そして、他の皇子たちを皇位から遠ざけることに成功し、不比等の孫である首皇子(おびとのみこ)が無競争で聖武天皇に即位した
→ 藤原不比等は、臣下でありながら天皇の祖父となった

道鏡の野望を阻んだ和気清麻呂(わけのきよまろ) p.158

宇佐八幡宮神託事件(弓削道鏡事件とも呼ばれる)
奈良時代に道鏡(どうきょう)が天皇位を得ようとして阻止された事件
和気清麻呂が持ち帰った神託:
「天つ日嗣(あまつひつぎ)は必ず皇緒(こうちょ)を続(つ)げよ〉」により、皇位継承の危機は回避された。
→ この神託のおかげで、危ういところで皇統は救われた

和気清麻呂は、道鏡により大隅国(おおすみのくに 鹿児島県)に流された
この道中の伝説: 三百頭の猪が道中を案内した、歩けなくなったところに猪に案内されて「霊泉」に足をtづけて治った・・・
和気神社(岡山県)では、狛犬の代わりに「狛猪(こまいのしし)」が置かれている

第48代・称徳天皇の崩御後は、道鏡は関東の田舎に追放される
天智天皇(第48代)系に皇位が戻って、第49代・光仁天皇が即位すると、和気清麻呂はただちに召喚された
こうして、長期にわたる政治の異常な状態は解消された

九百年近く途絶えた女帝 p.162

皇統の危機:
(1)蘇我氏の入鹿による危機→女帝の皇極天皇の時代に発生→中大兄皇子と中臣鎌足のクーデターで回避
(2)弓削道鏡事件→女帝の称徳天皇の時代に発生→和気清麻呂の持ち帰った神託で回避
(3)第109代女帝の明正天皇(めいせいてんのう) 皇子(後光明天皇(ごこうみょうてんのう)が幼いための中継ぎとして立てられた
(4)第117代女帝の後桜町天皇(ごさくらまちてんおう) 皇子(後桃園天皇(ごももぞのてんのうが幼いため、姉が中継ぎとして立てられた
この後、九百年近く女帝は途絶えている。

聖武天皇が実現した「三国一の大伽藍」 P.164

聖武天皇(しょうむてんのう)は、710年に「藤原京」から「平城京」に遷都した
平城京は、唐の都長安城を模倣して建造された
仏教に専念するため、娘の孝謙天皇(こうけんてんのう)に攘夷した
業績:「墾田永年私財法」の制定、日本各地に七重の塔をもつ「国分寺」と「国分尼寺」、総国分寺として「東大寺」を建立した
東大寺大仏殿は、三国一の大伽藍であり、唐にもインドにもこれ以上の規模をもつものはなかった

民衆参加型「大仏プロジェクト」 p.166

大仏造立の詔(だいぶつぞうりゅうのみことのり):
私は天皇の位につき、人民を慈しんできたが、仏の恩徳はいまだ天下にあまねく行きわたってはいない。
三宝(仏、法、僧)の力により、天下が安泰になり、動物、植物など命あるものすべてが栄えることを望む。
ここに、天平15年10月15日、菩薩の(衆生救済の)誓願を立て、盧舎那仏の金銅像一体を造ろうと思う。
国じゅうの銅を尽くして仏を造り、大山を削って仏堂を建て、広く天下に知らしめて私の知識(大仏造立に賛同し、
協力する同志)とし、同じく仏の恩徳をこうむり、ともに悟りの境地に達したい。

天下の富や権勢をもつ者は私である。その力をもってこの像を造ることはたやすいが、
それでは私の願いを叶えることができない。私が恐れているのは、人々を無理やりに働かせて、
彼らが聖なる心を理解できず、誹謗中傷を行い、罪におちることだ。
だから、この事業に加わろうとする者は、誠心誠意、毎日盧舎那仏に三拝し、
自らが盧舎那仏を造るのだという気持になってほしい。
たとえ1本の草、ひとにぎりの土でも協力したいという者がいれば、無条件でそれを許せ。
役人はこのことのために人民から無理やり取り立てたりしてはならない。私の意を広く知らしめよ。

→ 「たとえ1本の草、ひとにぎりの土でも持ち寄って建設しようではないか・・・」の考えは、実にすばらしい考え方である

「天照大神」だった奈良の大仏 p.170

毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ): 太陽神が仏教に入ったとされる 
→ 大日如来(だいにちにょらい)で、天照大神の本地である
仏: 無始無終(むしむしゅう)とは始まりも終わりもない絶対的なものである・・・これを「本地(ほんち)」という
この本地は人間を救うため、あちこちに具体的な形をとって現れる・・・これを「垂迹(すいじゃく)」という
→ この本地が日本に垂迹した場合、それが日本の「神」になる

大仏造営にあたって、聖武天皇は天照大神を祀る伊勢神宮に寺を建てる神許を乞うている
行基も伊勢に行って神慮を窺(うかが)い、「毘盧遮那仏を祀ることはけっしてこちらをゆるがせにすることではない」と誓っている
→ 伊勢神宮とは教義的にまったく矛盾しないという遺志を示したものである

「聖(セイント)コーミョー」の慈善事業 p.172

光明皇后(こうみょうこうごう)が聖武天皇に与えた精神的影響力は大きかった・・・大仏殿の建立、各地に国分寺を建立
光明皇后は、悲田院(ひでんいん)や施薬院(せやくいん)などの救済設備も建立している

正倉院の奇蹟 p.174

光明皇后は、亡くなった聖武天皇のために正倉院を残した
東大寺大仏殿の北北西に位置する、校倉造(あぜくらづくり)の大規模な高床倉庫である
正倉院が所蔵する宝物の9割以上は異国風のデザインを取り入れた日本産であるが、
中国(唐)や西域、ペルシャなどからの輸入品もある
倉庫の開放には、天皇の許可を必要とする「勅封(ちょくふう)」という制度があったため、今日まで保存されている

・驚くべき女帝の教養 p.177

光明皇后の真筆といわれる「楽毅論(がくきろん)」や「杜家立成(とかりっせい) 」の臨書が正倉院に残されている
光明皇后の楽毅論:天平勝宝8年(756年)に亡くなった聖武天皇の冥福を祈るために、遺愛の品々と共に東大へ献納されたのが、この楽毅論である 王羲之の筆づかいの特徴をよくつかみ、原帖のよさをくっきりと浮かび上がらせた臨書の最高峰と謳われている

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第6章 平安朝の女性文化
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ハプスブルク家と藤原氏 p.182

ハプスブルク家は西洋の藤原氏
藤原氏は皇位につこうとしなかった 
→ 神話の時代から皇室に仕えるものという意識があるため

藤原氏の「節度」 p.184

藤原道長 この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる ことも なしと思へば
(内容)この世で自分の思うようにならないものはない。満月に欠けるもののないように、すべてが満足にそろっている

このような状況でも、藤原道長は自分が天皇になろうとも、息子をならせようともせず、娘を天皇に差し上げて、孫を天皇にしようとする。
この慎みと節度により、藤原家は今日まで滅びずに続いている。

駘蕩(たいとう)たる宮廷サロン p.188

駘蕩:さえぎるものなどがなく、のびのびとしているさま

春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなく立たむ 名こそ惜しけれ (女 周防内侍)
(意味)短い春の夜の儚い夢ほどの戯れ事に、あなたに手枕をしてもらうと、甲斐のない浮名が立ってしまうは、口惜しいことに思います

契りありて 春の夜ふかき 手枕を いかがかひなき 夢になすべき (男 藤原忠家)
(意味)前世からの深い縁があってこの春の深夜に差し出した手枕なのに、それをどうして甲斐のない夢になさるのですか

このような歌が勅撰集(ちょくせんしゅう)に堂々と載っている。宮廷はまことに鷹揚(おうよう)であった。

「伊勢物語」の感情教育 p.190

伊勢物語: 平安時代に成立した日本の歌物語、全1巻、平安時代初期に実在した貴族である在原業平を
思わせる男を主人公とした和歌にまつわる短編歌物語集で、主人公の恋愛を中心とする一代記的物語でもある。

筒井つの井筒にかけしまろがたけ過ぎにけらしな妹見ざるまに (男) 
(意味)筒井戸の井筒と背比べをした私の背は、もう井筒を越してしまったようだなあ

くらべこし振り分け髪も肩過ぎぬ君ならずしてたれかあぐべき (女) 
(意味)(あなたと長さを)比べ合ってきた私の振り分け髪も、(長くなって)肩を過ぎました。あなた以外の誰のためにこの髪を結い上げましょうか

死者さえ出た「歌合(うたあわせ)」の過熱ぶり p.193

歌合(うたあわせ): 歌人を左右二組に分け、その詠んだ歌を一番ごとに比べて優劣を争う遊び及び文芸批評の会
天徳内裏歌合(てんとくだいりうたあわせ)
忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで (平兼盛)
(意味)隠していた私の恋心が顔色に出てしまい、恋の悩みで

恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか (壬生忠見)
(意味)「恋している」という私の噂がもう立ってしまった。 誰にも知られないように、心ひそかに思いはじめたばかりなのに

20.恋
左:壬生忠見 こひすてふわがなはまだきたちにけりひとしれずこそおもひそめしか
右:平兼盛(勝) しのぶれどいろに出でにけりわがこひはものやおもふとひとのとふまで

二十番の勝負において判者の実頼は優劣を付けられず、持にしようとしたが、帝から勝敗を付けるようにとの仰せがあった。
実頼は補佐の高明に決めてもらおうとしたが高明は平伏して何も言わない。
実頼は窮したが、その時帝が「しのぶれど」と兼盛の歌を口ずさんでいるのを高明が聞きつけ、実頼に伝えた。
それでようやく実頼も決心が付き、右方の勝ちと判定を下した。

卑官だった壬生忠見は、出世を懸けて詠んだ歌が接戦の末に負けたことを悲観してその後食べ物を受け付けなくなり、
そのまま死んだという逸話もあるが、その後の晩年の歌も残っている。

紫式部の近代的文学論 p.195

源氏物語(1001年): 平安時代中期に成立した日本の長編物語で、世界最古の小説、作者は紫式部
主人公の光源氏を通して、恋愛、栄光と没落、政治的欲望と権力闘争など、平安時代の貴族社会を描いた

第一部 光源氏が数多の恋愛遍歴を繰り広げつつ、王朝人として最高の栄誉を極める前半生
第二部 愛情生活の破綻による無常を覚り、やがて出家を志すその後半生と、源氏をとりまく子女の恋愛模様
第三部 源氏没後の子孫たちの恋と人生

「源氏物語」と「平家物語」 p.198

源氏物語 ・・・ほとんど大和言葉で書かれている
いづれの御時にか、 女御、更衣あまた さぶらひたまひけるなかに、 いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて 時めきたまふありけり
(どの帝の御代であったか、女御や 更衣が大勢お仕えなさっていたなかに、たいして高貴な身分ではない方で、
きわだって御寵愛をあつめていらっしゃる方があった)・・・大和言葉が主体

平家物語 
祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらは(わ)す。
(祇園精舎の鐘の音には、諸行無常すなわちこの世のすべての現象は絶えず変化していくものだという響きがある。
沙羅双樹の花の色は、どんなに勢いが盛んな者も必ず衰えるものであるという道理をあらわしている。)・・・漢語・経典からの語彙が含まれる

「本歌取り」という精妙な文学世界 p.201

本歌取り 歌学における和歌の作成技法の1つで、有名な古歌の1句もしくは2句を自作に取り入れて作歌を行う方法
主に本歌を背景として用いることで奥行きを与えて表現効果の重層化を図る際に用いた

しるべせよ跡なき波に漕ぐ舟のゆくへも知らぬ八重の潮風 (式子内親王)
本歌  白波の跡なき方にゆく舟も風ぞたよりのしるべなりける」(古今和歌集 藤原勝臣)

詩の絶対境(ぜつたいきょう) p.204

駒とめて 袖うち拂う 陰もなし; 佐野のわたりの 雪の夕暮れ (藤原定家)
ひたすら風景が美しいと感じ、その美しさを昇華するため、ほかの要素はすべて省く
実感というものを通りぬけた彼方に、純粋な詩の世界を確立 → 詩の絶対境

日本の恋歌の洗練度 p.206

藤原定家の撰と言われる「百人一首」は、小学生の「感情教育」になる

寝髪(あさねがみ)吾(われ)はけづらじ愛しき(うるわしき) 君が手枕(たまくら)触れてしものを (作者未詳)
(朝の乱れ髪を櫛でといたりしません。だって、いとしい人の手枕が触れた黒髪ですもの)・・・官能性が美しく昇華されている

平安時代の漢文学 p.208

奈良時代 漢詩集 「懐風藻」・・・現存する最古の日本漢詩集
平安時代
勅撰和歌集: 古今和歌集
勅撰漢詩集: 凌雲集、文華秀麗集、経国集

日本的感受性の「和習」漢文 p.210

遣唐使廃止(894)以降、日本的感受性の漢詩が生まれた
→ 和習(日本人が漢文を作る時に、日本語の影響によって犯す独特な癖や用法)
和漢朗詠集: 安時代中期の歌人で公卿の藤原公任が漢詩・漢文・和歌を集めた、朗詠のための詩文集

「言語二重奏」の完成 p.214

漢文・漢詩の完全消化と和歌の伝統が両立 → 「漢字仮名まじり書き」の表記法が確立
神と仏の両立
仮名と漢字の両立 (仮名→バイオリンの音 漢字→ピアノの音)
 

世界最古の百科辞書 p.217

秘府略(ひふりやく): 平安時代前期の天長8年(831年)に編纂された日本最古の類書(一種の百科事典)である
淳和天皇の勅により、滋野貞主が編纂した

遣唐使廃止と国家的アイデンティテイ p.220

聖徳太子の時代から続けられていた大陸への留学生の制度が、九世紀末に、菅原道真の建議で廃止になったことは、徳川時代の鎖国と同様、利点と欠点があった
遣唐使の廃止: 日本人の目が国内に集中→ 日本固有の精緻化が進んだ反面、文化の担い手たちの進取の気性は薄らぐ
徳川の鎖国: 日本人が自国に沈潜→ 国内文化が日本的に精緻になった反面、孤立による損失が大きく、国民の気質を退嬰(たいえい)的にした

鎖国の場合は、西洋から遅れるということがあったのに反し、遣唐使廃止の場合はその心配がなかった(大陸では唐が滅び宋が起こるまでの半世紀、中央政府のない時代が続いた)
「勅撰和歌集」が編まれ、和歌所が設置され、「竹取物語」、「源氏物語」、「伊勢物語」などの純粋な日本文学が生まれた
→ 揺るぎない文化的アイデンティテが確立された

密教化した仏教 p.222

藤原時代は男が武力に頼らない時代、武力は軽蔑され、感性が尊敬された=女性的な時代であった
大化の改新〜道鏡事件の間: 日本の仏教には毒があった(皇室を脅かす)
平安時代〜: 仏教の毒がとれた → 仏教は密教化した

密教: 秘密の教えを意味する大乗仏教の中の秘密教で、秘密仏教の略称、現世のご利益を求める、現世的なものに金をかけることを魂の救いと関連付ける → 見事な美術品が作られるが
・・・最澄(伝教大師)の天台宗、空海(弘法大師)の真言宗 → 護摩焚きの密教になる

加持祈祷(かじきとう): 密教において重視される仏の呪力を願う一種の儀式
仏教:インドで生まれ、大乗仏教がシナで栄え、その中の密教は日本が継承した
護摩焚きの密教と反対の立場をとるのが、鎌倉仏教の「禅宗」
キリスト教との類似性:
カトリック(神父、司祭)=現世のご利益を求める、プロテスタント(牧師)=反対の立場

平和と安穏(あんのん)の三百年 p.225

長きにわたる平和を確立したのは、藤原時代の男たちである

保元・平治の乱(1156,1159年)で平和な京都を武士が踏みにじる → 武家社会の勃興

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渡部昇一:「神話の時代から」2016